先日、父が亡くなりました。どこかで読んだ記事に「子どもはいる人といない人がいるけど、親がいない人はいない。」と書いてありました。そりゃ、そうだ、という当たり前のことですが、自分が先に逝かない限り、ひとはみんな親の死に直面する時がきますよね。私は先月、初めて経験しました。3歳のポン太にとっては祖父の死。今年に入って父の容体は一層悪くなり、母は「その時がきたら、ポンちゃんどうしようか?」と訊いてきました。3歳のポンちゃんをお通夜や葬儀に連れてくるのは、あまりに酷じゃないか、というのです。日常と大きくかけはなれ、人の死という理解を越えた状況に混乱してしまうのじゃないかと。私は、「ポン太はきっと大丈夫。命を知る貴重な機会になる。連れてくよ。」と応えていました。そして当日・・。臨終に立ち会うべく、私はひとりで先に病院に駆けつけました。あとから、ポン太と夫が合流する予定で。ところが・・・、なんと、その当日、保育園で濃厚接触者に認定されてしまい、数日、自宅待機となってしまったのです。数日を夫とふたりで自宅で過ごしたポン太。自宅待機が解けたその日、お通夜の当日にギリギリ間に合って、会場に現れました。家にある一番フォーマルなシャツを着せられた姿で会場に着くなり、「おじいちゃんは?おじいちゃんはどこ?」と叫ぶ姿を見て胸が苦しくなりました。夫にそう説明されていたようで、「骨になっちゃったの?骨になっちゃたの?」を繰り返します。通夜、葬儀の間はじっとしていられず、手の空いている大人に相手をしてもらって遊ぶポン太。果たして、状況を理解しているのか、理解していないのか。。火葬場でお骨を目にした瞬間には「組み立てなきゃ。」と叫び、列席者の涙を誘いました。それから自宅に戻り、数日。私が無意識に口ずさんだんだと思います。ポン太が「大きなのっぽの古時計」をよく歌うようになりました。「ねぇ、どうして時計は動かなくなっちゃったの?」「おじいさんがのぼる天国ってなに?」と次々と訊いてきます。「なんでもみんな最後は動かなくなるよ。」と説明すると、「テレビも?冷蔵庫も?机も?お母さんも?お母さんの頭も?」って。お母さんの「頭」ってなんだよ、ですが・・苦笑。どうも、この歌が「死」を理解する助けになったようです。特にYoutubeでこの歌の動画を観てから、いっそうイメージができてきたようです。最近では、保育園に通園するとき、青い空をみあげて大声で言うんです。「おじいちゃーーん、おはよう!いってきまーす。」って。で、その後、ちょっと恥ずかしそうに言います。「知らないけどね。いるかもしれないからね。」って。
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